T.REX(ティーレックス) / MARC BOLAN(マーク・ボラン)のトリビュートサイト
Marc Bolan(本名Mark Feld)1947年9月30日生 1977年9月16日没。1970年代のグラムロックシーンを代表するアーティスト。 David Bowieらと共に
グラムロック・ムーブメントを引き起こした。洗練された音楽・ファッション・詩からは、未だに新たなファンを生み出す神秘的な魅力(永遠のカリスマ)を感じさせる。

« 2005年11月 | メイン | 2006年01月 »

2005年12月31日

奇数の年は疲れます。

trextacy_image.jpg
好きな数字と色について聞かれる事が稀にあります。年に1回か2回くらい。
そういう質問をされる時、私は心の中で「こいつは何か心理テストめいた事をしようと企んでるな」と感じるから、本音は言いません。


で、好きな数字ですが、いつの頃か、数字を覚えてから今でもずっと変わりません。
好きな数字:【3】
色についても、基本的には変化なしです。たまにクロとかシロとかいう事があるのはきまぐれだからです。
好きな色:【黄色】

それで、なぜ自分は【3】が好きだったり、【黄色】が好きなのか考えて見る事にしました。

ちょうどここに12年前の今日書かれた日記があるので、それを見ると・・・
新年への抱負のようでいて、そうでもない中途半端なことが書かれています。
内容がかなり馬鹿馬鹿しいので、ここには書けません。恥ずかしすぎます。
さらに、なんだか漢詩を真似した詩が書かれていました。
煙花三月揚州を下りそうな勢いの内容です。これもまた恥ずかしすぎて見せられません。
いくら高校生の「私」が書いたものとはいえ、やはりこれは「私」です。

ついでにページをめくって、年の明けた1月1日には「昨日までの自分はもうここにはいない」とあります。
たった24時間過ぎただけなのに、「年が明ける」という社会的行事の力はたいしたものですね。
ちょうどこの頃受験勉強で毎日がピリピリしていたので、頭がおかしくなっていたのでしょう。

翌年の分も見て見ましょう。この年は晴れて大学生になっていたので、多少はまともなことが書かれていることを期待します。
・・・この日の日記の下の方には「明日って郵便局やってるんだろうか。元旦もくそくらえだ。」とあります。
自分でつっこんでみましょう。
まず、「明日って郵便局」とあるけど、高校1,2年の冬は郵便局でバイトしていました。だから、知っていて当然でしょう。
それをわずか数年で忘れてしまってます。
「元旦もくそくらえだ。」は、脈略がありません。
何か気に障ることでもあったのでしょうか。
日記の上のコラムを見ると、むしろその逆のようです。バイト先で知り合った女性と恋に落ちている真っ最中だし、特に問題はなさそう。
なのに、何が「くそくらえ」なのでしょうか。
今、こうして紅白のSMAPの歌を聴きながら必死になって思い出し、自問自答していますが答えは導かれてきません。SMAPのせいです、SMAPもくそくらえだ。

ただ、【3】が好きだとはいえ、素数は余り好きじゃありません。
下一桁が素数だとなんとなくその年は頑張れない気がします。面倒な性格ですね。

ところで、【黄色】が好きな理由は、シロチョウ科の黄蝶(きちょう)、トラ、阪神タイガース、レモン、グレープフルーツが好きだからみたいです。
他にも、黄色っぽいのは好きです。信号の黄色も好きです。

もうすぐ来年です。
あなたはどんな数字が好きですか?

投稿者 taku : 23:47

2005年12月29日

最近、リサイクルショップが面白い。

リサイクルショップには、大きく分類して3種類ある。
一つは、衣類などの布がメインの店。地域コミュニティー参加型のフリーマーケットといった雰囲気がある。
二つ目。ブランド品がショーケースに並ぶショップ。リサイクルとはいえ、そこそこ値が張る。高級腕時計も。
そして三つめが、とりあえず何でもあるリサイクルショップ。
取り立てて「魅力的」なものが並んでいる事は余りないが、たまに掘り出し物がある。
そういう店は、仕入れ値が無料もしくは、引き取り料として逆に料金を手に入れている事があるので、値段なんてなくても成立するような状態らしい。

この3つめのリサイクルショップをめぐることが最近の楽しみの一つ。
まあ、大抵の場合、欲しいと思えるような物と出会えるチャンスはなかなか巡ってこないが、たまにお宝を発掘したような気分になる事がある。



とあるリサイクルショップに初めて入ったときの事。
店に入るなり、「こんにちは」という景気の良い挨拶が耳に届く。
声が出てきた方向を見遣ると、40代後半の店主が笑顔で迎えてくれた。
今までの経験上、リサイクル・ショップの店員というのは、挨拶も積極的でなく、古本屋のアルバイト店員と同じ物静である、という印象が強い。
中には、無言でじろじろ見てくる気色の悪い店員もいる。
しかし、「こんにちは」と言われたのは初めてだった。余りにも突然で、しかもその声に不自然さを感じなかったのでこちらもつい「こんにちは」と返事をしてしまった。

店内には、子供のおもちゃからテレビ、服、雑貨、食器などが雑然と詰まれている一方、カウンターの前のテーブルには、タイやインドネシアの雑貨や土産物などが、なぜかそこだけきれいにディスプレイされている。

何かのきっかけで店主は長話を始めた。年に何度かタイやベトナムあたりを放浪の旅行に出かける話や、在日中の留学生と近所のタイ料理屋で交流を深めている事。
彼の簡単な略歴などを披露もされた。
ちょうど、夏の夕日がかんかんと照り続ける頃の事だったので、その店があたかもホーチミンの雑貨店のように思えてきた。
結局、その日は何も見つからず何も買わなかったが、店主はまた遊びに来いというので、後日遊びに行く事にした。

別の店でのこと。そこは、住宅街の中にぽつねんと姿を現してしまってどうもすみません、と謝っているような店構え。
店の面構えと、主人の態度が絶妙なシンクロ具合である。
「専門外以外の値段はわからないから」という店主は、品物の価格を聞いた私に「いくらなら買いますか?」と聞いて来た。
近所にタバコを買いにいくついでに立ち寄ったような店だけに、小銭しか持っていなかった私はありえない価格を提示してみると、「それでいいです」とおっしゃる。
そう言ってくれると嬉しい事には違いないが、気が引ける。ただ、実際ポケットの中にはタバコ銭程度しか入っていないから、「じゃあそれで」の一言で決着がついた。
その時、店主の好意か何かで譲ってもらったのがT.RexのEPだ。

とあるギターがケースに入って転がっている店を見つけたときの事だ。
その店はでは、何度かこまごまとしたものを買っていて、店員も顔を覚えていてくれていて、よくまけてくれる。
けちな店だと、せいぜい消費税分程度のディスカウントで終わるのだが、そこは消費税分の値段で売ってくれる事がある。
このギターの価格はいくらなんだろうと聞いてみると、まだチェックしていなけど、それでよければ500円でいいよという。
悩んだ。果たして、これを500円で買ってしまっても良いものなのだろうか。
一応そのギターの入手ルートを聞いてみたら、引越しの際に不要になったものを引き取ったのだそうだ、倉庫で眠っていたというそのギターには、いや、ギターケースには若干のカビが付着していた。
あとでアンプを通してチェックしてみたけど、これといって不具合は見つからなかった。ただ、ケタ外れに重たい。部屋に置いてあるどのギターよりも重いんじゃないか。

私がリサイクルショップが好きなのは、その街の生活環境が把握できるという事があるからだ。
街を散策する上で、リサイクルショップの雰囲気は、ある種その街の雰囲気の縮図のようなものであるので、私はそうした縮図を頭の中に叩き込んで散策をする。
地域には、その風土特有の歴史や特徴があって、地域コミュニティーの中から様々な話題を得る事が出来る。
たまたま居合わせた別の客、たいてい主婦やリタイアしたおじさん、インテリゲンチャのおばちゃん達なんかは、なぜか私に話し掛けてくる事が多い。
最初は、なぜ私に声を掛けるのか不思議だったが、最近はどうでもよくなってきた。こちらから声を掛けなくても、向こうからいろんな話をしてくれるのが楽しくなってきている。

いろんな地域に出かけて、その土地の風俗を知るというのは、私のような人間には大変貴重な材料となる。
中には、戦前の町並みを事細かに説明してくれるおじいさんが居たりするのだけど、そういう人の情報はそう易々と得られるようなものではない。大変貴重だ。

リサイクルショップというのは、ある種の江戸庶民の精神を彷彿(ほうふつ)とさせるだけでなく、モノで満たされ退廃した都会特有の浅薄な気風の、微力ながらも消毒薬としての役割を担っている、そんな場所であり、思想であり、概念ではなかろうか。
景気が良いとか悪いとか、そんな事に囚われて行動するような習慣を捨ててしまうと、リサイクルショップも楽しいものになってくる。
何より、お金より心の得をする事があるんだから。

投稿者 taku : 00:28

2005年12月28日

情報共有と地域コミュニティー

情報を取り出す事の簡便さが強調されているInternetで展開するWEBサイト。
黎明期には、今よりも内容の濃いそしてリピーター率の高いサイトが多かったと思うのだが、そうした有効なサイトが相対的に減っているように思う。

検索エンジンで目的のページにたどり着ける確立も無限に増殖するWEBLOGばかりにたどり着いてしまい、結局探索をあきらめてしまうなんて経験はないだろうか?

サイト運営をしていて、特にここ何年か考え続けている事は、情報というものは共有するものであって、提供するものではない、という事。
共有者が増えれば増えるほど、様々な事が見えてくる。その中で重要と思われるものは恒常的な主題となり得るのではないか。


情報が無料であると考えている人が多いのも、(個人サイト運営における)弊害の一つでもある。
情報を得るため・提供するための労力の対価は支払われるべきであると思う。
そこが経済活動の場でない限り、そこで得た情報に対してなんらかのフィードバックを得て然るべきである。

情報の共有というのは、その分野においての精度を全体的に引き上げる効果を持つ。

近年、身近な場所での犯罪が増えている。
"Crime Opportunity"というのは、「機会があったので、犯罪行動を起こしてしまった」などというような事を表す犯罪心理学理論で使われる用語の一つだ。
割れ窓理論もこれに含まれるし、ビットリオ・デシーカが演出したあの映画でも、この行動心理を描写している。(映画:自転車泥棒)
こうした理論は、行動心理学で著名なクラーク博士(南カリフォルニア大・イリノイ大の教授)が、1988年に発表した犯罪行動理論に関する著述とその後の研究が広く浸透し、日本においても体系的な理論を取り入れてきたという経緯がある。
多くの犯罪行動の場合、何らかのきっかけによるというのが彼の理論である。犯罪のおいての動機が、裁判においても重要視されるのも納得がいく。
しかし、このような理論がある限り、犯罪を未然に防ぐ事も必要であるし、そうした機会を与えない事も自覚すべきである。

この理論を読む限りでは、犯罪の多くは、地域社会の監視の目の届かないところで起こっている。
レーダーでは捕捉出来ない影で行われる犯罪だ。
地域社会全体で、日常的にレーダーを張り巡らせていれば、その地域全体で起こる犯罪の発生率は低下する。
つまり、そこには平穏な社会が形成されるということである。換言すれば、広く共有された情報によって安定がもたらされる。情報の共有は必要なのだ。
ここでいう情報というのは、単なるコンテンツとしての情報のみでなく、認識・知覚といった感覚行動そのものも含まれる。他に強制されない共通の認識が必要であるということ。
私はこの分野の専門ではないので、もしこうした内容に興味を持たれた方がいれば、http://www.crimereduction.gov.uk/learningzone/rat.htm でいくつかの情報が得られると思うので、あとは自分で勉強してもらいたい。

話を戻す。
共有された情報は、各個人によって整理・分類されより単純で明快なものへとなっていく。
より多くの情報が共有されれば、その情報に優先順位が定義付けられ、情報の精度が高くなる。
各々がフィルターの役割となり、良質なフィルターはより多くの情報を通す。

WEB等における情報コミュニティーにおいても同様の事が言える。
同じような内容が何度も重なるようになってくるようであれば、一度それらを体系的にまとめる必要が出てくる。
私のサイトに関しては、例えばGUESTBOOKに書き込まれた様々な内容のうち、同じような内容に関してはサマライズすべきであろう。
本人が気づかないうちに、比較的短期間に同じ内容のことを記述してしまうというような事を未然に防ぐように導く事も必要であるとは認識している。
ただ、実際に行動に移さないのは、余りにも量が多すぎて、やる前から諦めてしまっているという自分の堕落した性格によるものである。
現行のシステムの不備も理由の一つかもしれない。
実は、Wikiのようなシステムを導入しようと思っている。
訪問者が自由に情報を記述・編集・削除が可能なシステムだ。
ただ、そこまでやる必要があるか、訪問者はそれを欲しているか、果たして活用されるのだろうかといった事が懸念材料となり、テスト自体は行っても公開には至っていない。

以前開催したオフ会がきっかけとなって、そのときの参加者の一人が先導役となり新たにオフ会が開かれた。
こうした行動も、機会があったから実行に移行しただけのことであり、このサイトはそれほど重要な鍵ではない。
しかし、もし仮に、サイト自体が、そうした軽く小さなきっかけにでもなったのであれば、少しは役に立ったのだろうと思う。
既にサイトからは独立したコミュニティーとなったという点では、そうしたコミュニティーは重要な成功パターンの一つではないだろうか。
ファンクラブのように閉鎖した環境にならない事だけを祈る。そして、とにかく情報を公開していくことで、次の世代に受け継がれるようなオープン・コミュニティーに発展していけば、それこそ、100年前のレコードが箪笥の中で見つけても差ほど驚かずに自然と受け入れられるような安定した文化になっていれば、あの人も天国で微笑みかけてくれるだろう。

投稿者 taku : 00:57

2005年12月20日

新蕎麦は透き通った水の味。

soba_01.jpg
昨年、新蕎麦の会というのに誘われたのがきっかけで、今年もその新蕎麦の会というのに行ってきました。

1回目は、「なにやら蕎麦打ちの名人が新蕎麦を披露」するんだ、というような事で、半ば興味本位での参加。
しかし、一口食べた途端、眠っていた前身の血流が頭の先からつま先まで超高速移動をしたかのごとく衝撃的な感動を得たのです。
何にしても「初めて」の時というのは感動するもので、2度目以降はそれほどでもない、という心理的影響作用があるのだとか。
そうか、と思った私は、湧き上がる期待を押さえ、冷静を保ちます。
soba_02.jpg

ところで、その蕎麦打ち名人というのは、NHKの趣味悠々で今秋蕎麦打ちを指南していた高橋邦弘氏。
ブラウン管を通して見るそのままの風貌の出で立ちでリズミカルに蕎麦を打っていきます。
きっと彼自身、熱狂的な蕎麦好きなのでしょう。蕎麦を打っている姿から伝わってきます。

首を長くして待っていた「新蕎麦」。
名人とそのお弟子さんが総動員で新蕎麦を披露してくれる「私にとっての今年最大のイベント」。
同席した私の親戚の一人は有給休暇を取ってまで参加しているという熱の入れです。
蕎麦の魅力を知った人は、仕事よりも蕎麦を優先にしがち・・・なのかも知れません。

広島の名水と、源泉された新蕎麦、そして何より心のこもったプロの手打ちという最高のコンディションでテーブルに運ばれてきました。
合計3枚運ばれるうち、最初の1枚が目の前に。私のハートは透き通った若さあふれる蕎麦の艶に心を奪われ、自我を失いそうです。
まずはそのまま1本だけ口に。アルプス山脈が見えてきます。
コシが強さ、豊かな風味。何も飾らない盛り蕎麦は、一目にはシンプルですが、そのシンプルさが他のあらゆるものを必要としない充実感が漂います。
soba_03.jpg

蕎麦一本、そのたった一本が、あたかも深山の湧水ように口の中で踊り始め、透き通った天然水を含口しているかのような感覚。
前の年に覚えたあの感動を超えるものを与えてくれました。
まさに、幸せの絶頂。今まで感じた幸せのすべてが吹き飛んでしまう程の感動です。

写真にあるように、いわゆる江戸前そばといった感じのもので、ちょうどこの辺でいうと深大寺で食べられる蕎麦と同じタイプでしょう。
どっちがおいしいとかという比較は出来ないのだけど、年に一度しか経験できないというプレミア感(私が勝手に年に1度にしているだけ)も、おいしさのひとつに入っているかも知れません。
けれど、蕎麦を打っている人が、「自分が食べておいしい蕎麦を食べてもらいたい」というただそれだけのシンプルな情熱と、決して気取る事のない信頼のおける人柄、さらには、蕎麦に向かう姿勢が勘に頼るものではなく、むしろ論理的に、極めて冷静に作られるその姿勢に敬服しました。
soba_04.jpg

年が明けて、少し梅の花でもほころび初めて頃にでも、今度は深大寺あたりで蕎麦オフでもやりたいと思う今日この頃です。


■参考リンク
・翁達磨:http://9638.net/daruma/
・湧水(深大寺蕎麦、いちおし!):http://www.yusui.co.jp/

投稿者 taku : 14:21

さいきんのこと

ここ数ヶ月の間いろいろなネタを蓄積し、それらをいちいちテキストエディタに打ち込み保存しておいたのだが、
悲劇は今月にはいってしばらくのこと、仕事でも使うメインのPCのHDDが飛んでしまった。
この、飛ぶというのは空を飛んで風を運んでくれるといった気の利いたものではなく、つまりはデータがふっとんで仕舞ったという意味。

時折バックアップをとっておいたので、なんとか復旧出来るであろうと楽観していたはいたものの、結果としてはその被害の甚大さが未だに尾を引いているというのが実情だ。

数日かけてようやく今までと同じとまでは行かないまでも、ある程度は復旧できた。
しかし、クラッシュからさかのぼって4か月分のデータが完全に消失。
メールやメモなどといったテキスト類だけでなく、その他もろもろのデータも、もうそこには存在していない。
仕事の中枢に関わる重要なデータこそは常にバックアップをとっていたのだが、これから重要になると思われる一時的なものや、ある種の連絡先メモといったものが無いのはかなり痛い。

復旧にかけた数日の間は、ほぼ不眠不休で作業に没頭していた。
本来ならしなくてもいい作業に尽力する自分の姿を、時折既視感を通じて見たような気もしていた。

9月末から立て続けにいろんなゴタゴタが重なり、今ごろになってようやく落ち着きを取り戻してきたわけだが、やらなくてはいけない事、やりたい事が残っている。


12月23日のT.Rexの映像鑑賞イベントがある。私はスケジュールの都合上参加出来ないのが残念ではあるが、T.Rex好きな人が、なんというか自然にもやもやっと集まるような感じが良いではないか。
こうした活動が、何も私のサイト経由ではなく、もっと自発的にいろんなところで開催されてほしいと思う。
そして、そうした開催情報などがこのサイトで紹介されるといった具合となれば、このサイトも当面の間は閉鎖せずになんとかモチベーションを保つ事が出来る。

投稿者 taku : 14:16 | トラックバック