T.REX(ティーレックス) / MARC BOLAN(マーク・ボラン)のトリビュートサイト
Marc Bolan(本名Mark Feld)1947年9月30日生 1977年9月16日没。1970年代のグラムロックシーンを代表するアーティスト。 David Bowieらと共に
グラムロック・ムーブメントを引き起こした。洗練された音楽・ファッション・詩からは、未だに新たなファンを生み出す神秘的な魅力(永遠のカリスマ)を感じさせる。

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2006年07月27日

江戸情緒がやってきた。烏山の寺町通。

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大正時代、関東大震災を期に浅草などの寺院が今の世田谷・北烏山に移動してきたという。
それから80年余を過ぎた現在、烏山は都内でも有数の寺町として、知る人ぞ知る散歩コースとなっている。

あ、完結してしまった。

成城警察署は仕事熱心!?

かれこれ15年来の付き合いになる自転車に乗り続けている私は、どんなにボロくたって、警ら中の巡査に呼び止められてもこの自転車を手放そうとは思わない。
話は脱線するが、杉並・世田谷は自転車の盗難がここ数年増えているのだそうだ。
私は高い確立で巡査に職質される。最近ではそれが余りにも頻繁すぎるのと、警察OBの方のアドバイスで、職質してくる巡査の名前などを控えるようにしている。
3名の熱心な巡査リストが出来上がった頃、今度は職質されるのを期待するようになった。
このリストを増やして自慢したい、そんなコレクター心が芽生え始めてしまったのだ。
しかし、こういう珍しい趣味を持ち始めた途端に巡査は熱心で無くなる。コレクションしているのが気付かれてしまったのだろうか・・・。

そんな風にどこかに巡査は居ないか、などと考えながら、というわけでもないが、ちょっと一息つきたいときは大体烏山周辺までサイクリングをする。
ぼろい自転車でのサイクリングなのだから、横文字のカタカナ表記を使うのは随分乱暴に思われるかもしれない。

玉川上水の川面が見えてくるのは、富士見が丘のNHKグラウンド裏あたり。この水路に沿って走ったり、そのまま高速道路の下を西に向かったり、そのときの気分でルートは変わる。
今回は烏山の話なので、高速道路下を西に進むルートを通ることにする。

烏山の寺町

途中、高速道路下は団地に挟まれるような形でその下を通れなくなる。
用地買収が済んでいないのか、構造上の不具合なのか、遠回りを強いられるのは地域住民には不便だろうと余計なお世話を心の中で焼きながら、しかし、この不便を理由に、「なんとなく昭和の風景が残る団地」の中を、私はをセーセードードーと通る。ちょっと得した気分だ。
元来、人生自体が遠回りなので、この程度の遠回りは慣れっこになってしまった。
遠回りした後、再び高速道路下を山梨方面に進むと「寺町通り下」という信号が見えてくる。
そこはまさに左折せよと言わんばかりの寺町通り風情漂う光景だ。

東南アジア風の妙祐寺本堂

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そのお寺の密集する中に一際目立つ、というより異彩を放つ寺がある。写真のそれだ。
大正モダニズム様式というわけではないだけど、丸みを帯びた装飾やクリーム色の外壁、これは浄土真宗本願寺派のお寺だ。20世紀になって2度の移設を経験しているという事だが、一見するだけは判りづらい。
他のお寺はそれなりに名前の通りの雰囲気を体裁よく整えているのに対して、ここだけは、その本堂の風貌からインド様式の寺院である事が突出して目立つ。
なぜこのような建物になったのかは判らないが、機会があれば住職に成り行きを聞いてみよう。

この寺町通へは、京王線千歳烏山から南を向いてのほほんと歩けばなんとなく見つかるだろう。
千歳烏山の商店街はアド街ック天国でも取り上げられたりして、そこそこ名は知られているだろうけれども、この寺町通は余り知られていないので、有名になる前に散策する事をオススメする。

なんてったって、江戸時代の有名人のお墓が移設されてきているので、思わぬ大発見も出来るのだから。

東京都世田谷区北烏山4-16-1

投稿者 taku : 21:51

2006年07月23日

猫が暮らせる東京路地裏。

寺山修司という世界についての記事はこちらのページです。リンク修正をお願いします。
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浜田山から阿佐ヶ谷まで100円のバス、「すぎまる」が開通して何年経過しただろうか。
開通前は商店街の反対に遇ったという。
反対の表向きの理由は、
「商店街には歩行者が多い。彼らにとって迷惑かつ危険だ」
という事のようだが、実際は、
バス開通により、地域住民が阿佐ヶ谷まで足を伸ばし、ただでさえ魅力の無い浜田山の商店街を余計過疎化する要因となる。
そんなところだろう。

さて、現実はどうかというと、南北に出来たバスルートは人の往来を活性化し、結果的に地域商店街への経済的利益を供与した。

戦前、浜田山周辺は麦畑であった。井の頭街道は今の半分程度の道幅。その南に位置する甲州街道は、今の井の頭街道よりも狭い旧街道である。
この旧街道が戦後進駐軍の軍事車両通行のために大規模な拡幅工事が行われ、東京湾に入港した船から下ろされた兵器が甲州街道を経由して府中、立川、福生などの基地へ運ばる。
拡幅工事は朝鮮動乱の折に一層激しさを増し、結果、現在のような主要幹線道路への進化を遂げていったのである。

戦後しばらくの間は地主が土地を手放さなかった(価格が上がるのを待っていた)こともあり、浜田山は田舎のままであったが、東京オリンピックの開催をきっかけに状況は急変する。
そこに、浜田山が何もない武蔵野の田舎から中途半端な町への変容というストーリーが内包されているわけだ。

そもそも、浜田山という田舎臭い地名には由来がある。その語源を示す説には紆余曲折がある事から、真実は意外と知られていない。
元来、武蔵野地域の住民の「言葉の訛り」のようなものとして、例えば松林だったり杉林なんかが平地にぽつねんと存在すると、それを松山だったり、杉山などと呼ぶような習慣があった。

井の頭線駅名の由来を解説する資料を見ると、浜田という百姓の土地が由来だという比較的簡素な説明がある。
上述の「~山」という林を示す「武蔵野の方言」と、郷土史における浜田山の変遷と重ねるとより詳細の由来が現れる。

「浜田」という百姓の持つ畑の中に、雑木林があった。武蔵野の住人はそれを「浜田」の持つ「雑木林」という意味から「浜田山」と呼んだ。
この話は戦前からこの土地に暮らす「80を超えたおじさん」から取材中に得た話である。
信憑性云々よりも、事実だけを繋ぎ合わせると解が得られた。数学的だ。

さて、そんな浜田山のどうでも良い語源の話題で盛り上がり、「すぎ丸」については終に(ついに)触れず、ここまで来てしまった。それどころか「路地裏の猫」まで迫害を受けている始末だ。
しかし、この「ふたつ」は私の中で比較的容易にリンクする内容なのだ。

前回、「寺山修司という世界」を観に行ったと書いた。土曜日にもう一度、今度は地元の友達を誘っていく事にした。
生憎の曇天で雨が降るかも知れないので、阿佐ヶ谷までバスで移動する事にした。そのバスが「すぎ丸」。
このバス、確かに住宅街ばかりを選んで通行するバスではあるが、いわゆるコミュニティーバスというわけあって、そのサイズもコンパクト。
ロケバスくらいな大きさを想像してもらえばおよそ見当がつくだろう。

五日市街道を横切り、杉並高校の脇から阿佐ヶ谷住宅を過ぎたあたりに、築年数に歴史的な重みを感じさせそうなアパート2階の屋外通路に目を遣る。そこに見つけた猫に私は「あっ猫」と小さい声で叫んでしまった。

なんだか矛盾しているようだが、「あっ」と言いかけた時に、そう、こういうときに限って普段の1万倍を超える劇的な脳の回転が生まれるのだけども、僅かの間にここは公共空間の中だという意識がエンベロープを下げる事に成功し、声が小さくなるに至った。

パリなんかのアパルトマンなんかもそうだけど、大抵中庭あたりに猫が居る。誰が飼っているというわけでもなく、なんとなく居る。
なんとなく居る、なんとなく生きている、なんとなく生きることが出来ている・・・。

四季を通して、寒い日や暑い日、雨の日風の日、いじわるな人間、ひどい人間、バカが運転する車、キチガイが運転するバイクなど、彼らにとっては危険がそこかしこに存在している。

にも関わらず、平穏な姿で寝ている猫を見ることが出来るのは、その地域がまだ人間によって完全に抹殺された空間ではない事を意味している。

灰色の建物をアマゾンの森林に例えてコンクリートジャングルと表現される。
そんな殺伐とした東京を示す言葉の語感に見合う雰囲気はこの地域には「まだ」到達していない。

四半世紀の間に、善福寺川の護岸工事は終焉を迎え、杉並の方々(ほうぼう)で見られた芋畑は宅地へ変容し、空き地の「土管」も地中に潜り、そして朝夕(ちょうせき)のラッシュの殺伐とした空気が時に他人の生命すら迫害するストレスになっても、猫は猫のままである。

言いたかったことはそれだけだ。

投稿者 taku : 03:30

2006年07月20日

寺山修司という世界 ~劇団 羊のしっぽ~

terayama_sekai.jpg 中学生の頃に教科書に寺山修司が題材として取り上げられていて、それ以来なんとなく彼のホンを読んだり、ぼんやりと映画を観たりして、そして、どこかに引っかかってはいた。

その頃は、ちょうど漱石や龍之介、太宰などの作品をゆっくりとしたペースではあるものの読み続けていた頃だったので、それらより新しい作品全般は、結局高校に入ってからに後回しとなった。

数年前、吉祥寺PBCで寺山修司特集のような企画展をやっていた。存命中の母を勝手に亡き者として扱ったり、阿佐ヶ谷を舞台にゲリラ的な演劇をやっていた普通の人という印象が強かった彼が、

どこかインテリゲンツァのようでいて、また、ある種のアイドル的な存在として扱われているようだった。

先日、ある知り合いの女優さんが出演するということで、その方にお願いしてチケットを確保したもらったのが表題にある「寺山修司という世界」という舞台。

つまりは、寺山修司とはこんな世界観を持っているのではないか?という提案のようなもの、だという感想を率直に抱いた。

リアルタイムで彼の作品を間近にした事がなかったので、彼に関しての情報の全ては伝聞によるものだった。

だから、何が本当で、何が捏造なのかは全くわからないのだけど、この舞台に関しては頭の中で描いていた想像が、あたかもドラえもんの声が大山のぶよでなければならない、という理屈にも似たものを得る事が出来た。

似たような経験で言えば、グラナダTVで制作されたシャーロック・ホームズシリーズの中の一つ、「空家の冒険」がまさにそれだった。

医者ワトスンの前に現れた「小脇に年代モノの書物を抱える」老人が、キャビネットのガラスに反射するその象影の中で、やがてそれがホームズである事をカメラが捕らた時の演出の細かさ、そして、その日の日没後に出かけた、あのベーカー街221にある部屋向かいの「空家」にてモーラン大佐を待ち構える時の息を呑むような瞬間、それらが、テクストから得た頭の中の想像を見事に一致した時の喜び、それが、今回の舞台にあったように思える。

寺山修司という人は、私がここで述べるまでもなく、アーネスト・デ・ラ・セルナを演劇という世界に引き込んだような人物。

恐らくマザコンで、そして恐らくどこまでも人を裏切るのが好きなサプライヤー。そんな人なのではないだろうか。

その世界を、前述のようにあえて提案という形でハワイアン・キルトのように繋ぎ合わせ一つの演出えと導かれた今作には心から圧倒されてしまった。

舞台と客席までもがキルトのようにバラバラとなり、またそれが絶妙なバランスを用いたピカソの絵画のように張り合わされている。

舞台装置から、音響、照明に至るまで妥協を極限まで許さないという姿勢は、チケット代の1,000円という革命的な価格には到底見合うものではない。

劇団四季のように汎用的なエンターテイメント性を重視した作品とは、キャパシティー及び興行規模では異質ではある。しかし、万人に対して与える影響なり印象というものは、心象的なエンターテイメントという観点においては、同じ土俵に居る事は明白だ。

客席に見た宮藤官九郎も、ビックリしたのではなかろうか。

神楽坂というロケーションも意外。

新宿2丁目や、高円寺、中野などのアングラ演劇のメッカのそれとは意図的に物理的且つ精神的な距離を置きたかったのであろうか、あらゆるディティールにおいて、演出・制作の舞台裏の膨大な努力が、ターシャ・チューダーが守るあのガーデンのように美しき花々を咲かせた最高の舞台だった。

今週末に千秋楽を迎える。その前に、時間が許せばもう1回観たい。

■劇団羊のしっぽ http://www.hitsujinosippo.com/

投稿者 taku : 00:41 | コメント (1)