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作者紹介
JOKA
10歳で「The Slider」に出会い、7枚聞き潰す。
15歳の時マーク・ボラン没(享年29歳)。
人生の目標を失うも、数年後、聖跡 Lexham Garden/Barnesに滞在(第二次ボラン・ブーム)
現在は第三次ボランブームに突入中。

成功は楔のようだ・・親しい人々との別れ

TEXT BY JOKA

「マーク・ボラン, 1973年夏, 僕は孤独だ」(マーク・ボラン 録音メモより)

1972年以降、スーパースター・マークの日増しに肥大するエゴにあいそをつかし、苦楽を共にした人々がどんどん離れていくようになります。残った人も、ほとんどの場合、マークの気まぐれでクビにされてしまうのですが。
「Telegram Sam」の中でPurple Pie Peteと歌われている、女たらしで腕利き広報のB.P.ファロンや、ジョン・ピールに代わってT.レックスをサポートしていたDJのボブ・ハリスもマークから去っていきました。

ジューンの逆襲・・妻に髪を切らせてはならない

「アメリカが彼を殺したの」(ジューン・ボラン マークの妻)
「ジューンはマークの女神でインスピレーションの源だった。
失読症の彼のために本をまるまる一冊読み聞かせ、彼の詩のスペルを直し、献身的にマークに尽くした。
なのに、マークは『僕はロックン・ロール・スターだからロックン・ロール・ガールフレンドを手に入れるのさ』って言い出した。
彼の選択は、間違いなく彼の人生の一大転機になった。」
(トニー・ヴィスコンティ/プロデューサー)
ピンク・フロイドの秘書だった4歳年上の妻、ジューンは、実務的なことが全くできないマークの代わりに、ビジネスをてきぱきと切り盛りしていました。
また、友人エリック・クラプトンにマークを紹介してギター修行をさせ、パーティーではスター達と上手く交流し、ツアーに同行してパンクの修理までしていました。
マークのスタイル、長いカーリー・ヘアーにメイクに衣装も彼女の発案でした。彼女の貢献が無ければ、スターのマーク・ボランは存在しなかったでしょう。

しかし、マークが1973年、アメリカ・ツアー中にバッキング・ボーカリスト、グロリア・ジョーンズと親しくなると、二人の関係に暗雲がたちこめます。
元彼女のテリーや黒人歌手、マーシャ・ハントとの浮気があったとはいえ、マークは70年代のロックスターにしては、驚くほど妻ジューンに忠実でした。マークに色目を使い始めたのはグロリアでしたし、ジューンが今回も大目に見れば、悪さをして叱られた子供みたいに、マークはジューンの元に戻るはずでした。
ところが、ジューンは夫に見切りを付けて、スーパースターの豪邸を飛び出し、再び戻ることはありませんでした。

「ジューンに捨てられて、マークは心に深い傷を負ったようだ」
(キース・オールタム/広報)
「グロリアを手に入れたマークは別人のようだった。それまでアルコールやドラッグを遠ざけていたのに、それに際限なく溺れるようになった」
(ミッキー・フィン/T.レックス)
マーク&ミッキーという二人の美形が中心だったT.レックス。それが、ミッキーに代わり、愛人グロリアがスポットライトを浴びることになります。
結果は、シングル「Truck On(Tyke)」が初めてチャートのトップ10を落ちたことからも明らかでした。

アルバム「Zinc Alloy and the Hidden Riders of Tomorrow」は、T.レックスというクレジットではなく、 「Creamed Cage in August」という匿名バンドで出されるはずでした。
しかし、EMIによりクレジットは「マーク・ボラン&Tレックス」になっています。これはジャケットのマークの変貌があまりにも激しく、購買者が彼と気付かない恐れがあったためでした。

「Zinc Alloy」のジャケット写真のマークは、かつての面影もありません。自慢の、陶器のように白い肌は日焼けで真っ黒だし、トレードマークのカーリーヘアーはとても短くなっていました。 日焼けはバハマでグロリアとの浮気旅行の結果でした。
「彼は日焼けでどんどん黒くなったの。私より黒くなるって言ったのよ。」と嬉しそうに語るグロリア。
一方、マークの髪の毛はジューンが別居の直前に切ったのでした。この効果は抜群で、「中年のオバサンのような髪形」に幻滅して、多くのファンが離れていきました。デリラに髪の毛を切られたサムソンのように、マークはこれ以降、急激に魔力を失ってしまったのでした。

T.レックス=マーク&ミッキーの終焉

「成功は楔(くさび)のように、俺たちをばらばらに引き裂いた。マークと俺はかつて、それは、それは親しかった。」(ミッキー・フィン)
1969年、スティーブ・トゥックの後釜求むという求人広告には、300件もの応募がありました。しかし、マークはそれに目を通す必要はありませんでした。写真家の友人、ピート・サンダースに、画家のミッキー・フィンを紹介されたからです。
初めて菜食レストランで会った時、二人はフェリーニの映画の話題で盛り上がりました。二週間ほど迷った末、マークはミッキーをティラノザウルス・レックスのメンバーとして採用します。
前の相棒、スティーブ・トゥックに歌や演奏で及ばなくても、ミッキーは映画スターのようなすごいハンサムで、何より、スティーブと違って、マークの意見には全てイエスと答えてくれるのです。
「マークはロックンロールを食って、ロックと寝て、ロックの夢を見たのさ。俺はそれほどでもなかったけれどね。」
(ミッキー・フィン)
ステージでのマークの好きなジョークは「僕とミッキーが結婚してるって知ってるかい?」でした。
実際、持ち前のユーモアでスーパースターのストレスを和らげていたミッキーは、マークの良きパートナーでした。しかし、ドイツのティーン雑誌Bravoには、ミッキーへの映画出演やフォト・セッションのオファーをマークが一方的に断るなど、マークのワンマンぶりが暴露されています。

ミッキーは主にビジュアル担当でしたが、T.レックスの中では破格の待遇でした。ステージ出演料は無いが、印税はマークと折半というものです。
ミッキー自身の言葉によれば、在籍中に100万ポンド(約7億円)は稼いだはずだそうです。しかし、マーク同様、ロック・ビジネスの病巣・・主にグルーピーとドラッグが彼を蝕み始めます。
ドラッグのせいで演奏がまともに出来なくなったミッキーに、マークはマネージャーを通して解雇を言い渡しました。マークが6年間共に歩んだ相棒のことを口にするのは最晩年になってからです。

解雇後、ミッキーはこう語っています。
「俺にだって成功するだけの才能はあると思うよ。でも成功するにはちょっとずるくて、信じられないくらい冷酷にならなきゃいけないんだ。」

もう一人のT.レックス・・トニー・ヴィスコンティにも見放される

ミッキー・フィンの解雇は、音楽的には全く影響が無いとはいえ、栄光のT.レックスの没落を象徴する出来事でした。音楽面での著しい後退は、マークと共にT.レックスサウンドの要であった、プロデューサーのトニー・ヴィスコンティが去ったことでしょう。
トニーもマークも、無名の頃からチームを組み、トップを目指して奮闘した、いわば同士のはずでした。

しかし、TANX以降、トニーはそれまで2%だった印税を、1%にカットする旨をマークの弁護士から突然言い渡されます。T.レックスの成功へのトニーの貢献は計り知れないものでしたが、それが全く無視されたのです。

トニーは激怒しました。しかし、当時子供ができたばかりの彼は、生活のためにその提案を呑まざるを得ませんでした。
壮麗なストリングスと大げさなバッキング・ヴォーカル・・T.レックスの公式はマンネリ化し、30分しないうちにレコーディングが完了することもありました。
「安上がりだろう」と、マークは喜びましたが、待遇も悪く、やりがいも無くした名プロデューサーは去り、デビッド・ボウイの成功に大いに貢献することになります。
少々の金銭を惜しんで、貴重な人材を手放す、というのがスターになってからのマークの悪癖の一つでした。

それ以降、T.レックスのプロデュースは、トニーによれば、「技術的なことはほとんど知らず、ギター・コードも7つしか知らない」マーク自身が行うことになります。

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