T.Rex / Marc Bolanのトリビュートサイト。 Marc Bolan(本名Mark Feld)1947年9月30日生 1977年9月16日没。1970年代のBritish Rock,GLAM ROCKを代表するアーティスト。 Tony Vistontiに見出され、朋友David Bowie(デビッド・ボウイ)らと共に若い世代を中心に熱狂的な人気を得る。代表アルバムにElectric Warrior, The Sliderなど。今日も新たなファンを生み出し続けるロック界のメリエス。

MEMBER of T.REX
Steave Took
スティーブ・トゥック
モルヒネとマジック・マッシュルームの乱用が祟ってしまい1980年10月27日に他界。ティラノ時代で稼いだお金はドラッグに費やしたそうです
Micky Finn
ミッキー・フィン
1990年代後半より新生T-REXを結成して活動していたが、内臓の疾患により2003年1月11日にLondonのクロイドンの病院にて他界。享年55歳
他界する数ヶ月前に会ったミッキーはこちら
Steve Currie
スティーブ・カーリー
ボランと一番長くバンドを支えていたベーシスト。1981年4月28日にポルトガルの自宅へ帰宅途中に交通事故で他界。ボランの事故と酷似していた。
Bill Legend
ビル・レジェンド
T.REXのドラマー。現在はエセックス州で暮らしている。最近はLen Tuckey(Suzi Quatroの前夫)と地元でギグを行なったりしている。
Gloria Jones
グロリア・ジョーンズ
結婚し、南アで暮らしている。事故以来歌う事は出来なくなったのが残念であると本人は語る。現在は子供のエイズ撲滅の為のボランティア活動に専念している。
Rolan Bolan
ローラン・ボラン
現在28歳。アメリカ国籍を取得し現在はLAに暮らしている。自身もミュージシャンであり、ボーカルとして活躍中。CDの売れ行きについてはN/C
2002年の追悼ライブでのローランの写真はこちら
June Child
ジューン・チャイルド
T.REXの商業的な成功を影で支えた彼女は、1994年に滞在先のトルコで心臓発作で他界。ある情報によると、この旅行はボランの未発表曲のリリースによって手に入れた資金で行ったとの事。

Peter "Dino" Dines
ディノ・ダインズ
中期〜後期T.REXのキーボードプレイヤーとして、マーク・ボランを支えてきた。残念なことに2004年1月28日に他界してしまった。
David Bowie (left)/Marc Bolan (right) 1977年9月16日。マーク・ボランの命日である。この年はエルビス・プレスリーも他界するなど、激動の年であったかのように思えてくる。

ボランはグラム・ロックというジャンルを確立した一人である。1970年代前半のUKロックシーンは、ビートルズの解散によって、ロックの世代交代が行われた時代でもあった。1969年後半から始まったハード・ロックの進出は、それまで若者達を支配してたポップスから開放するかのごとく、洪水の勢いで世界中を渦中に押し込んでいった。まずは、ヤードバーズ出身の3人のギタリストたち。エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベック。彼らは揃ってブルースの影響を受けてきたプレイヤーではあるが、独自のバンドを創設してからというもの、彼らの持つ新しい可能性を意のままに操っていった。 そして、対局する2つのハード・ロックバンド。そのうち一つは先に上げたジミー・ペイジを含むLED ZEPPELINであり、 もう一つは、DEEP PURPLE。どちらもUKバンドである。彼らもまた、現代のギターキッズと呼ばれるテク重視のギタリストの憧れの的である。

その一方で、グラム・ロックといわれる、ジャンルが台頭していく。T.REXをはじめとして、スウィート、ゲイリー・グリッター、デビッド・ボウイ、アリス・クーパー達である。彼らは、またハード・ロックの影響を受けつつも、個性的な音楽性とそのスタイルでスターダムへとのし上がっていったのである。その中でもボランの単独バントであるT.REXはいまだに未発表曲が次々とリリースされている。

だが、ボランの存在を知っている人は意外と少ない、どこかで聞いたことはあるという人はいても、それがTREXの曲であると認知する至らない。

1972年にマークの来日した時、日本でもT.Rextasyというムーブメントが若者たちの間に巻き起こった。
独特のスタイル、独特の声。グルーブ感のあるサウンド。どれもが新鮮であった。だが、熱のさめるのも早く、否、次々に登場する新しいバンドの新しい音楽に必死について行こうとした人間達によってあっという間に世間から忘れらてしまったのであった。

また、奇抜な衣装も、最初のうちは物珍しかったのであるが、次第に目が慣れていく事で、スタイルから興味を持った人間から事実上見放された形となっていったのだ。
本国イギリスでも、1975年あたりからは、彼自身のレーコード・セールスは好ましくなかった。しかし、1977年の始め、彼は"Dandy in the Underworld"というアルバムを完成させる。このアルバムの完成度の高さからは、ボランの復帰にかける意気込みを感じる事が出来るとともに、不運な事故死を悔んでならない。

もし彼が生きていたら今年で58歳、まだまだ現役で活躍出来る年齢ではないだろうか?

マーク・ボランと、トニー・ヴィスコンティーの出会いについて

マーク・ボランとトニー・ヴィスコンティーが出会ったのは、1967年のこと。
それまでのマーク・ボランは、"John's children"に在籍したり、スティーブ・トゥックとデュオを組み、サイモン・ネピアベルのプロデュースで幾つか作品を世の中に送っていたが、彼の思うような大きな成果は出せずにいた。しかし、トニー・ヴィスコンティーとの運命的な出会いが、マークにとっても、ヴィスコンティーにとってもその後の大きな成功に繋がっていたのだ。

ヴィスコンティーはそれまでDenny Cordellのもとで、アシスタント・ディレクターとして(ヴィスコンティーは、「大体6ヶ月くらい」と言っている)働いていたのだが、そのデニーが、ヴィスコンティー自身プロデュースによる作品を作ってみてはどうだろうか、と促したそうだ。その時、彼には気になっていたバンドがあった。しかし、そのバンドの演奏を見てもあまり良い印象を受けなかったので、他のバンドを探す事になった。

バンドを探すに当たって、"International Times"という、ロンドンのアンダーグラウンドの新聞のバンド広告の欄で彼が見たのが"Tyrannosaurus Rex."というバンド名。他にも幾つかあったうちで、一番長い名前であったのと、彼がその時働いていたオフィスがOxford Streetにあったが、そこから近い"UFO club"というところで演奏するということで、とにかく、そのクラブへ足を運び、クラブへと通じる暗い階段を降りて行った。

クラブの中で彼が体験したのは、静まり返った300人近いオーディンエンスと、その前方のステージ上であぐらをかいてアコースティック・サウンドを演奏していたボランと、彼の(当時の)相棒スティーブ・トゥックが産出する、何とも言えない空間だったいう。ボランの発する言葉は、英語なんだか、フランス語なんだか、なにしろ言葉として理解が出来ないのだが、それがまた神秘的な感覚をヴィスコンティーを含めた観客たちが共有したのだった。

そして、クラブでの演奏が終わった後、ヴィスコンティーはボランに話を持ち掛けに行ったのだが、その時のボランの有名な答えが、
"You're the 8th record producer we've met this week. John Lennon was here last night and he wants to produce us!"
(今週出会ったレコーディング・プロデューサーは、君で8人目だよ。昨日なんかジョン・レノンがやってきて、僕らをプロデュースしたいって言って来たんだ。)
勿論、これはボランの冗談であったのだが、その時ヴィスコンティーは、JohnやPaulが新人バンドを発掘するのにクラブやなんかを探し回っていたっていう事実があったせいで、真に受けたみたいだ。

ヴィスコンティーは早速、彼に電話番号をメモした紙切れを手渡し、デニーにこれこれこういう事だったみたいな事を話ししたのだが、デニーはいまいちぱっとしないようだった。それでも、「やりたいならやってみるがよかろう」というセリフだっかどうかは、読者の判断に任せるとして、とりあえず、スタジオへ連れて行く事にしたのだった。

そういう事があってから、トニー・ヴィスコンティーの初プロデュース作品である"My People Were Fair..."が誕生したのだった。