T.レクスタシーの時代・・マーク・ボランという商標
TEXT BY JOKA
「マーク・ボランが全てだ。T.レックスじゃないんだ。彼がT.レックスなんだ」
スティーブ・カーリー(T.レックス)
子供の心のスーパースター
「ロック・ビジネスに興味はないね。僕は常に9歳の子供さ。」
「ポール・サイモンみたいに一枚のアルバムから5枚もシングルを切るような、ファンを馬鹿にした、ひどい行為は僕にはできない。」(マーク・ボラン)
マークは、ファンにとても、特に子供達に親切でした。どんなに疲れていても、サインも写真も嫌な顔一つせずに応じていたといいます。
晩年のマークは何故、シリアスな音楽番組に出ないで子供番組にばかり出ていたのか、と疑問に思う人もいますが、何よりも子供のファンを大切にするマークなら、当然のことでしょう。
子供達が少ないお金で楽しめるよう、コンサート料金を安くし、3曲入りシングルを出したのも、T.レックスが初めてでした。ヒット・アルバムからシングル・カットをすることもしませんでした。
T.レックスはマークの生前、一枚も正規のライブ盤を出していませんが、それは、「一度お金を払って聞いたものに、またお金を出させるのはファンをぼったくることだから。」だそうです。
とてもファン思いな、特に、若いファンに余計なお金を使わせない気遣いがあったマーク。
では、彼の同僚に対してはどうだったのでしょうか。
T.レックス帝国・・・皇帝マークとしもべ達
「『ザ・スライダー』は72.5時間で完成したんだ。俺はまだ明細を持っている。」スティーブ・カーリー(T.レックス)
「税金対策で、アルバムは海外でつくらなくちゃならなかった。ボウイは専用シェフ付で、一ヶ月フランスの城を借り切った。ボランは同じ場所を3日間だけ借りて、僕らが疲れ果てるまでこき使った。」
トニー・ヴィスコンティ(プロデューサー)
T.レックスはワールドツアーの合間に3日ぐらいの短時間でレコーディングをしていました。
費用が安いというばかりか、レコーディングがツアーステージの練習も兼ねていたのです。
すごい粗製乱造なのに、数々の傑作アルバムが生まれたのはある意味すごいですね。
「バンドを始めた時は週給30ポンドだった。辞めたときは80-100ポンド。ギグには50ポンドでセッション代が100ポンドだったね。」スティーブ・カーリー(T.レックス:ベーシスト)
ビル・レジェンド(ドラマー)は週給40ポンドで2年間、その後は50ポンドで据え置きでした。超人気バンドでありながら、T.レックスのメンバーやスタッフの給料は極端に低かったのです。ミッキー・フィン(パーカッション)以外には印税も払われませんでした。
バンドにもっとお金が入ったら給料を上げるという約束も、マークの何千ポンドもする衣装代や、ロールスロイスやコカイン優先で、決して守られることはありませんでした。
一方、マークの収入は・・・何と印税だけで「秒」給40ポンド(当時のレートで約35000円)!!スーパースターの中でも、群を抜いていたのです。
マークは、T.レックスのリーダーであると同時に、自らのレコード会社・曲・歌詞の版権会社という、三つの会社の社長でもありました。(皮肉なことに、この「T.レックス帝国」が、彼の死後、家族・周囲の人をことごとく不幸にします。とりわけ、婚姻関係が破綻していた、未亡人のジューン・ボランを奈落の底に叩き落しますが、それは後の話。)
飛行機の移動も、絶頂期は全員、ファーストクラスでしたが、後には、マークと内妻グロリア以外はエコノミー。車も、マークと妻ジューン(後にはグロリア)はロールスロイスやリムジンで、他のメンバーは別の車に、荷物と一緒にぎゅうぎゅう詰めでした。もっとも、これはマークではなく、マネージメントの決めたことでしたが。
ドラマーのビルは1973年、難聴でリズムが取れないことを理由に解雇されます。
スティーブ・カーリーは、「地下世界のダンディ」の数曲まで付き合っています。彼が未払い給金100ポンド貰ってバンドを去ったのは1976年のことです。
親友だった当時のドラマー、デイビー・ラットンが「銀河系よりの使者」の売り上げ不調を理由に、クビを言い渡されたためでした。
テレグラム・サムは大事なヤクの売人
「カーネギー・ホールのコンサートは最高だったね。ポール・サイモンが通路で踊っていたよ。」(マーク・ボラン)
「マークはコカインでイカレてたね。あんまり早く成功しすぎたのさ。カーネギー・ホールでは、コンサート前にトイレでシャンペンを2本空けて泥酔。もちろん、コンサートはひどいもので、会場の外に行くと、ポール・サイモンがやってきて、『クソだ』と一言。俺はここまでだと思って、アカプルコに高飛びして、T.レックスとはそれっきりさ。」(トニー・セクンダ:マネージャー)
・・・嘘つきが二人、いるようです。
トニー・セクンダ―イニシャルT・S―はテレグラム・サムのモデルと言われている人物。
トゥモロー、ムーブなどの腕利きマネージャー兼コカインの売人で、自身もジャンキーでした。60年代、ドラッグを嫌悪していたマークが、スターのプレッシャーからコカインに手を染めるようになったのは、彼を通してでした。
テレグラム・サムはゲイの歌ではなくて、大事な人=ヤクの売人というわけです。
セクンダは、T.レックスとフライ・レーベルとの契約更新を拒絶し、世界中のレコード会社とコンタクトしました。世界中のレコード会社がT.レックスを求めて、お金の詰まったスーツケースを持って押し寄せました。セクンダは、最終的にEMIにマークの会社、T.レックス・ワックス・カンパニーを設立させること成功しました。また、彼の大々的なプロモーションのおかげで、アメリカで唯一のヒット、「バング・ア・ゴング(Get it On)」が生まれています。
しかし、フライとの関係を断つ、という目標が達成されると、マークはあっさりセクンダをクビにしました。セクンダは復讐に燃えて、ティラノザウルス・レックスをクビになったスティーブ・トゥック(!)のマネージャーになるのですが、ついぞ復讐は果たせませんでした。
スティーブ・トゥックはスターダムになんか全然興味がなかったので。
T.レクスタシーの生まれた日・・・バックステージにて
1972年1月、かつてマークが「貧民窟」と呼んだ、ラッドグローブ・ブロークのヒッピー達が、バス・ツアーに出かけました。目的地は、ボストン・グライダードローム。後に「伝説」と言われる、T.レックスのライブ会場です。スティーブ・トゥックの友人達が、スティーブの昔の相方のご機嫌伺いに企画したツアーでした。
着飾ったティーネージャーだらけの会場に、長髪のヒッピー集団は異様でした。
スティーブは、いたずら好きの友人の手引きで、バックステージに隠れていました。マークがやってきて、出演前のインタビューを受けています。
・・・「ティラノザウルス・レックスは何故、商業的に成功しなかったのですか?」
マークが口を開く前に、スティーブが物陰から飛び出して、
「それは、僕が居たからさ!」
久々のスティーブの姿に、マークはあやうく気絶しそうになりました。二人は抱き合いましたが、交わす言葉はありませんでした。マークは着飾った、ゴージャスな人形みたいで、自分の偉大さで頭が一杯だったし、スティーブはボロを着た、ただのヒッピーでしたから。
大観衆の歓声を受けてステージに向かったマークを見て、ファンは泣き叫び、33人の女の子が気絶しました。「T.レクスタシー」という造語が誕生した瞬間です。
しかし、スティーブは、マークの華麗な、激しいステージを見て、悟ってしまったのです。「T.レクスタシーは長く続かない」と。筋金入りのジャンキーの彼には、マークのエネルギーの素がコカインだとすぐに判ったし、コカインが人をとても脆くする、ということも知っていたので・・・
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