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作者紹介
JOKA
10歳で「The Slider」に出会い、7枚聞き潰す。
15歳の時マーク・ボラン没(享年29歳)。
人生の目標を失うも、数年後、聖跡 Lexham Garden/Barnesに滞在(第二次ボラン・ブーム)
現在は第三次ボランブームに突入中。

地下世界のダンディ・・・忘却の果てに

TEXT BY JOKA

「落目なんかじゃないよ。僕はまだNO.1さ。」(マーク・ボラン-1974年)

重税を逃れるために国外へ

1974-75年、マークは99%という重税から逃れるため、英国を離れます。 ミック・ジャガー、ジョン・レノン、ロッド・スチュワートら当時のスターのほとんどと同じように。
ただ、マークと彼らの違いは、いまだにアメリカで成功をしていない、ということでした。マークはジプシーのように、モナコ、ロサンゼルス、ロンドンをさまようことになります。そして、海外に居る間も、ファンから忘れられないように、テレビ局にビデオを送り、記者会見のためにジャーナリストを海外まで招待しました。しかし、一時はマークを王侯貴族のように持ち上げていたメディアも、「Truck on」以降、ヒットが出なくなると、彼の大言壮語を馬鹿にするようになります。

マークのモナコでの生活は、五つ星ホテルに泊まり、グロリアにブランド品を買い与える贅沢な暮らしでしたが、実際は孤独なものでした。ブランデーを毎日一本空け、コカインに耽り、泥酔した挙句、唯一心を許す相手、グロリアにすら暴力を振るうようになります。また、菜食主義で維持していたスリムな体は、ドラッグに溺れるようになって始まった肉食のせいで、相変わらず少食だというのに、どんどん膨らんでいきました。まるで、彼のエゴの増大を象徴するかのように。

マークがアメリカで付き合っていた友人達はニルソン、リンゴ・スター、ジョン・レノン、キース・ムーンなど、いずれも劣らぬアル中達(Liquid Gang)でした。ウェストコーストの海岸で浴びるほど飲み、「海岸をうろつく以外、することがないんだ」マークはニルソンに漏らしたとも伝えられています。しかし、マークは驚くほど勤勉で、泥酔しながらもほぼ毎日セッションをしていたのです。「レコーディング中にワインを16本空け、翌日は何をレコーディングしているか覚えていない有様だった。」(スティーブ・カーリー Tレックス)そうした未完成の膨大な作品群は玉石混交のまま、マークの没後に続々と発売され、ファンの頭痛の種になっています。

転落を決定づけたアルバム・・・Bolan's Zip Gun

「マークが太ったのは自然なことよ。彼は十年以上、休まず働き続けたんだから。やっと、人間らしい生活が送れるようになったのよ。」
(グロリア・ジョーンズ マークのパートナー)
74年、「Truck off」ツアー中にメディアがマークにつけたあだ名は「豚妖精」「ラメをまとった肉塊」・・・・肥満はマークの人気に決定的なダメージを与えました。こうして、英国の全レコード売り上げ25枚に一枚はT.レックスだったスーパースターから、劇的な転落をするのです。マーク自身、人気の下落と共に自らの音楽の方向性に苦しんでいました。アメリカで彼の見出した新しい方向は、ガールフレンド、グロリアの影響もあり、ソウル/ディスコ路線でした。しかし、ローティーンの女の子たちがメインのTレックスファンがソウルへの傾倒を歓迎するはずもなく、また、新たなソウル・ファンの獲得にも失敗。 「21世紀のチャック・ベリー」と自信満々だった初プロデュース作品「Bolan's Zip Gun(邦題 ブギーのアイドル)」(75年3月発表)の売り上げは惨憺たるもので、米国ではカサブランカ・レコードとの契約を打ち切られてしまいます。現在に至っても、日本・米国での高評価と異なり、本作は英国では失敗作とされています。

電気の武者の帰還・・・散々だったドラゴン・ツアー

「Tレックスは1975年に絶滅したんだ。」それが一時帰国していたマークが報道陣に発した第一声でした。彼は(死後日の目を見ることになる)パンク・オペラやグロリアのソロ・アルバムについて語り、Tレックスには興味を失ってしまったかのようでした。

しかし、1975年の「New York City(邦題 ニューヨークの貴婦人)」のマイナーヒットは、長い間、低迷していたマークに自信を与えました。ティラノザウルス・レックス時代の「ワン・インチ・ロック」のリフに、ヴィスコンティを思わせるジミー・ハスケルのストリングス・アレンジ、フロ&エディのバック・ボーカルを加えて、同じ歌詞を延々と繰り返すこの曲は、新たな道を模索して試行錯誤を繰り返しているマークの思惑に反し、古典的なTレックスの音でした。

1976年1月には「Futuristic Dragon(邦題 銀河系よりの使者)」が発表されました。今では「The Slider」以来の傑作とさえ言われる本作ですが、発表当時はチャート50位に一週間とどまっただけでした。これは一部の熱狂的なファンが多量に買い占めたためです。マークの栄光からの転落があまりに派手だったので、作品の質に関わらず、一般には無視され続けたのですが、「地上に堕ちた最初のスーパースター」として少数の根強いカルト信者を生むという奇妙な現象が起こりました。

76年、マークは、強迫観念だったアメリカでの成功を諦め、重税の待っている英国へ帰国することにします。帰国後、71年の「電気の武者ツアー」以来の、長期間に渡るツアーを行っています。一部のファンは熱狂的にツアーを追いかけましたが、比較的小さい会場を選んだにも関わらず、プロモーションが不十分だったせいもあり、売り上げは惨憺たるものでした。ツアー中にボウイのファンに殴られ顔に青あざを作ったり、フラストレーションから鏡を割って手首を8針縫う怪我をしたりと、アクシデントが続きました。(マークはどちらの怪我も熱狂的なファンの仕業にしていました。)ロンドン・ライシアムでのコンサートは、空の会場、相変わらず泥酔して歌詞さえ覚えていないマークに「ここ数年間で最も悲しい光景」と散々のメディア評でした。

「Dragon」は今では前作「Zip Gun」より大分出来が良いことになっていますが、ほとんどの作品は1973-4年に既に完成していました。では1975年のマークは何をしていたのでしょう。

センセーション大通り・・・企画倒れだった映画出演

76年ごろ、キングズ・ロードのマークの家に友人のジャーナリストがインタビューに行くことになったんだ。マークは私に、「ファンがいないか確認して、外から電話をしてくれ。そうしたらドアを開けるから。」って言うんだ。言うとおりにして、マークがドアを開けたときに「ファンはどこだい?」って尋ねたよ。確かにそんな時期もあったけれど、今では外には人っ子一人いなかったからね。マークはこう言ったんだ、「みんな、隠れているんだよ。」
(キース・オールタム マークの広報)

上記のエピソードは「サンセット大通り」のグロリア・スワンソン演じる、忘れられた大女優ノーマ・デズモンドを思わせます。75年、モナコ滞在中のマークを夢中にさせたていたのは、映画「Obsession(強迫観念)」への出演依頼でした。英国の名優、デビッド・ニーブンとの共演。マークの役柄は、人を殺すことに性的快感を覚える倒錯者の青年。残念ながら映画は予算の都合で企画倒れになり、メディアもまた、例のほら話だと揶揄しはじめる始末でした。映画が実現したにせよ、マークはセリフを覚えるのが大の苦手だったようですが。

ローランの誕生・・・生活を正す?

「僕の名前はトニー・ヴィスコンティ、デヴィッド・ボウイ、それに親父が三人で決めたんだ。(それぞれ韻を踏んで)トニーの息子はモンティ・ヴィスコンティ、ボウイの息子はゾウイ・ボウイ、ボランの息子はローラン・ボランにしようってね。」(ローラン・ボラン-マークの息子)

75年、マークとグロリアはダイエットと禁酒のために入院します。禁酒のほうは退院と同時に破られ、体重も全く以前と変わらなかったのですが、病院からは思いがけない朗報が伝えられます。グロリアの妊娠でした。9月、マークの誕生日(そして命日)と同じ月にローランは誕生します。マークは大いに喜び、それを機に生活を正し、ドラッグとアルコールを止める宣言をします。この頃のマークの薬物と酒の耽溺ぶりはひどいもので、75年には不摂生のために心臓発作で倒れ、死にかけたことを告白しています。しかし、ドラッグはともかく、アルコールの方はなかなか止められなかったようです。グロリアと共にクラブに出かけ、ローランはクローク受付に預けて二人は飲み明かす日々が彼の死の直前まで続きます。

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